2007年05月16日

存在の科学 時間原理と空間原理

点状ループとは、無限に小さな点が無限に大きな宇宙とつながってるという奴。ところが、この第二段階の世界では時間はループしてません。過去と未来はつながっていない、いわば開放系なのです。空間は閉鎖系、時間は開放系。だから、時間経過でおなじことを繰り返さない。一回限りの出来事の連続。ここから、いろんなもの、多様性がうまれるんです。これを空間の原理と呼びます。一方、第一段階はどうでしょう。大宇宙が意識になり、意識が肉体になり、肉体が宇宙になるという、ローテーションです。これは時間、つまり、過去と未来がつながってるのです。時間は閉鎖系ですが、空間は開放系。これを時間原理と呼びます。ですから、時間はたった一つ、空間にはたくさん、多様性があると考えられます。かって、哲学者ハイデガーは本来的時間とは死を覚悟することと考えました。自分が自分自身の全体をつかもうとする。すると、自分の限界、エッジに手をひっかけないといけない。自分のはじめとおわりです。これが誕生と死です。これはあきらかに、ローテーションの方向、時間原理です。肉体は生まれる前は意識で、死滅して宇宙です。非本来的時間性という概念も使います。これはみんなでおしゃべりして、共通の時間、時計のような時間に生きてること。そもそも、時計は針の空間的な移動であるように、非本来的時間とは、まさしく空間原理です。また、カントは産出的構想力が図式を作っちゃうといいます。産出的構想力は時間原理のローテーションで、図式とは空間原理のループです。

  さて、父なる神さまは強大な無のパワーで、大宇宙の純粋な存在を出現しました。沈黙のパワーであり、これによって第二段階、第三段階が動き出します。つまり、父なる神様が時間原理を支配してると思われます。子の高度生命体は大宇宙の純粋な存在をなぞってカタマリ、単語、人体を作ります。これはロゴスです。つまり、空間原理を支配してるのです。ふつうに世の中のお父さん、子供の関係も同じです。大人は過去の記憶、経験を教訓に、行動します。つまり、時間的にものをみるんです。ところは、子供は経験が浅く、誕生してからまもないので、もっぱら経験、記憶に頼らず、空間的に物をみるのです。いろ、形なんです。

  
    
 
 

 
  

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2007年05月15日

存在の科学 二元的入れ子構造

存在の科学 二元的入れ子構造

   大宇宙である父なる神様は無のパワーで純粋な存在を生み出す。これはスペルであり、スペルの組み合わせは無数にある。つまりは無限の可能性を持つものです。子である高度生命体は父の沈黙によって生み出されたスペルを組み合わせて単語を作る。これが語り。人間の世界でも、父は寡黙で、一生懸命、子に背中を見せて伝えようとします。ちなみに、桜吹雪はみせません。フロイトも父と子の関係を言葉であると考えました。言葉を学び、社会のルールを知るのです。子の高度生命体はやっぱち無のパワーによって、単語、言語を出現させ、これがいわゆる人間の人体だ、と言いました。これは言い換えてみると、父なる神様は、純粋な存在を生み、これはいわば、巨大な壁のようなもの。壁は一体でありますが、見方をかえれば無数の亀裂、隙間、無が入りこんでいます。その無限にある亀裂をなぞりながら高度生命体は人間の人体を描くのです。そして、問題は第三の無のパワーによって生み出された人間の自由意志、自己意識です。これは心、精神といった言い方をしてもかまいません。じつは、第三の無のパワーは、第一と第二の無のパワーが弁証法的に一体になったもの。言いかえると、大宇宙と人体の一体です。どういうことでしょうか。人体が宇宙全体とつながると、心、はては生命が誕生するとは以前お話しました。点状ループと言ったものです。宇宙全体が無限に小さな点とつながる。点の中に宇宙があるといってもいいです。有機物の基本です。細胞が集まって人体つくってるのでなく、細胞は全体である人体と関係してるのです。部分と全体が無関係ではないんです。これが有機物であるならば、こんどは部分である人体が宇宙全体と関係して、心、精神が生まれるのです。だから、第一と第二の無の合体が第三の無であるという意味です。ところが、ここで一つの問題にぶち当たります。梵我一如という言葉にあるように、宇宙と私は一体だという考え。つまり、第三の人間精神がスライドして第二の人体になり、第二の人体はスライドして、第三の宇宙になる。たしかに、死んだらモノになるとは、人体が宇宙になり、心もまた人体、つまりモノになることです。さて、そもそも、第一の宇宙はどこにスライドするのでしょうか。もしかしたら、第三の精神にスライドしてロー手所ンしちゃうかもしれません。宇宙が私の精神となって生まれ変わるのです。ですから、ここが理解に苦しむ宇宙と人間精神との関係です。人体と宇宙の弁証法的な融合が人間精神ともいえるし、宇宙そのものが人間精神になったともいえるのです。第一と第二が合体して第三だ、ともいえる。また、第一がそのまま第三になったともいえる。じつはこれが同時的に成り立っちゃうのです。だから、人間は個性的な人格を持つと同時に普遍的な人格ももてるのです。特殊と普遍があり、特殊のなかにも特殊と普遍がある。とことん二元的しかも、入れ子構造です。だから、宇宙は有限でもあり、無限といえる。ローテーションして楕円だともいえるし、頭と尾が永遠につながらない双曲線、または直線ともいえる。いわば、その中間である放物線なんです。輪廻天昇すると同時にしないのです。


  
    
 
 
  

 
  

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2007年05月14日

存在の科学 第一の無、第二の無、第三の無

無は存在の至る所に入りこんでいる。物と物の隙間、いろんな穴たち。すべてが隙間だらけで、無のパワーによって一発に出現した存在はただの関係性でしかない。カタマリではないのだ。私というカタマリはどうやって出現したのか。私の輪郭はたしかに無ではあるが、ただの無ではない。二発目の無のパワーだ。そして、一つの単語、意味を形作ってる。そして、人体の色、形の違いが意味を作ってるのか、はたまた、文脈の中で意味がうまれてるのか。とにかく、高度生命体はいろんなスペルを組み合わせて単語を作る。そんなスペルや単音は一発目の無のパワーによって形成された。一発目の無のパワーによって作られた一発目の純粋な存在、関係性としての存在。これは父なる神によって作られたのだ。これに対して、二発目の無のパワーによって作られた、意味あるカタマリ、つまり、人体言語。これはいわゆる高度生命体によって生み出されたのである。だから、父なる神と救世主である高度生命体との会話は、沈黙と語りという会話になっている。父なる神様、宇宙は、沈黙によってあらゆるスペルを生み出し、これを使って、高度生命体は意味ある人体言語を出現させ、語っているのだ。さて、三発目の無のパワーである。これは人間の人体の無である。人体が無いところでパワーだけがあるとは、これは人間精神にほかならない。これによって、かっての私ではなく、いまの私ではないものになろうとする、というように、いわゆる、人間の自由意志が誕生だ。サルトルいわく、人間は無を分泌してる存在である。いわゆる、ハイデガーのいう私の存在の輪郭である無、つまり、生まれてから死ぬまでを包み込む不安としての無は、ほかならぬ、高度生命体の無である。つまり、高度生命体は不安をまえにして孤独な私がいるとき、世の中でたった独りの個性的な私がいるときにコンタクトがとれるのである。キルケゴールのいう信仰である。

さて、第一の無、第二の無、そして、第三の無です。この三番目の無は人間精神、自由意志でした。それでは第三の無とはなんでしょうか。これはいままでの無が統合されたもの、つまり、第一と第二の無が弁証法的に一体化されたものです。そして、第二の無によって作られた人体言語の消失、つまり、死とは、第三の無が第二の無に繰り上げられることです。精神が人体になるのです。これが生まれ変わりではないでしょうか。そもそも、精神は人体と関係性、単語とスペルもしくは沈黙の融合体でした。ですから、精神が新しい人体になる来世。その新しく得る人体は古い人体とその行動様式、さまざまな関係性が反映されるのです。過去世の行動と関係が人体の形状を決定するのです。そして、そこにまた新しく第三の無によって、精神が形成されるのです。
 
 
 



 
 
  

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2007年05月12日

存在の科学 まとめ1

   世の中にはいろんなものが存在しますね。カスタネットにマンダリン、リンボーダンスのバーも存在します。みんな生活必需品です。遠足のとい忘れたら大変です。これらを存在者といいます。存在者についてはいろんな科学があります。生物という存在者を研究だ、という生物学。惑星の表面を覗いてやれ、という天文学、惑星科学。ところが、存在そのものを論理的に、科学的に考える分野はあるでしょうか。大胆にもそんなことに挑戦です。

  理屈、論理、言葉、これらをひっくるめてロゴスといいます。一言で言うと秩序です。秩序を愛する人だから、っとカラオケの演歌の歌詞にありがちです。ロゴス、秩序の反対は無秩序、でたらめ、カオスです。


   さて、この世界に存在してるものはみんな力と方向性をもっております。つっぱりは相手の顔面に手が飛んで行く。方向だけでなく力もあります。方向と力が組み合わさると何が生まれるでしょうか。ベクトルという矢印です。車もある方向に動く。あたると痛いです。飛行機もものふごい力、噴射力でアメリカはカリフォルニアに向かってたりします。機内テストで不合格、グアムの地にふめません。出題者があくびしてる隙をねらって踏んじゃいましょう。すべて、存在者はベクトルもってるんです。方向と力。方向は三次元空間、つまり、幾何学的なもの。これはロゴス、理屈、秩序で満たされております。それでは力はどうでしょうか。力とは無秩序、でたらめ、カオスから生まれるのです。熱エネルギーとは、空気の粒が活発にでたらめに動きまわること。化学爆発も、分子やら原子のでたらめの動きが極まったもの。つまり、力は無秩序、方向性は秩序なのです。

  こんどは飛行機、お尻、みかんの皮などの存在者でなく、存在そのものに話しをうつします。存在そのものがロゴス、秩序だとしたら、これを支えるでたらめ、無秩序とはなんでしょうか。存在そのものを支えてる究極の無秩序。これが無なのです。無が存在を支え、力を与えているのです。

  無の研究です。無は二つの無にわけられます。じつに、無の中には二つの装置が仕組まれています。ひとつは歴史、過去の無。過去はもうすでに存在してません、つまり、無なんです。もう一つは未来の無。未来はいまだ存在していません。この未来、起こるかもしれないことは、論理的な可能性と言いかえられるかもしれません。だから、まとめると、無は過去の無、つまり、歴史という名の無と、未来の無、つまり、論理的可能性としての無にわけられます。

   存在してるものには隙間があります。私は椅子に座っておりますが、椅子とお尻の間、隙間。間とか、隙間とは無のこと。つまり、私のお尻と椅子の隙間に歴史という無がはさまってる。聖徳太子の歴史もパンツとお尻の間にはさまってる。聖徳大使、小野妹子がはさまってるとはなんたることでしょうか。申し訳無いのワンツー攻撃です。だから、われわれは歴史の無による力によって動かされているのです。私が日本人であり、人間であるのは、ほかならぬこの無による力によるもの。いたるところの隙間には歴史がはさまってる。歴史の影響はいつも隙間、間から突き動かすのです。もう一つ、論理的可能性としての未来の無。これも隙間にはさまっておるんです。ですから、歴史に影響されつつ、可能性に向かって存在してる。ところが、こんな存在はまだ、ものすごーく具体的すぎて、個性的すぎて、カタマリとして存在してるのではないんです。ただの存在は実体、カタマリではなく、ただの関係性なのです。 




   無は歴史と論理的可能性という二つの装置が隠されてる。これによって、無は計り知れぬパワーをもって、存在を出現させているのだ。存在そのものが一発目に出現した出来立てほやほやの状態。肉まんならば、湯気が立っている。じつは、この純粋な存在はカタマリではないんです。実体ではなく、あまりに具体的で個性的であるからただの関係性なんです。関係性が存在。たとえば、にんじんくださいな、と人はいう。にんじんという言葉は見えないところだらけ。にんじんの中みえない、にんじんにいくつのどんなシミついてるかもわからない。見えない、わからない、がモノのカタマリ作ってる。つまり、ほんとーに具体的で細かいところを全部こだわっていれば、言葉を無限に言いつづけても足りない。無限に細かく、みじん切りできるんです。そして、にんじんといってもこの世で立った一つ、しかも、この瞬間のにんじん。個性の究極は、もはや点なんです。空間的に時間的にも、カタマリ、実体はありません。だけど存在してるんです。しかも、通常、関係性というと、関係してるカタマリがないといけないとか、媒体がないといけない、と思われる。仮に実体のない波だといっても、波が生じるには水、お茶、オレンジジュース、空気が必要です。ところが、そんな媒体がないのに波発生、関係性誕生なんです。もちろんサーフィンでいなせん。いいかえれば、無に生じた波。これが一発目のできたての存在。これを気と名づけます。気の活動が最初にあるんです。




   おまけ


  宙を見つめてください。とりわけ、人為的なもの、人工物でなく空や山の自然をバックになにも見ようとしないで宙みつめるのです。周囲の人が見たらイッチャてるという顔つきになります。そのとき、すさまじい閃光でどこからともなく現われ、消えてゆく小さなな点が見えますよね。これが無に沸き立つ波、気だとおもわれます。プラーナという人もいます。無秩序な動きです。究極の無秩序、これが無。無の波が存在です。。なにが特定のものを見ようとすると、ロゴス、理屈、論理使っちゃいます。だから、見えないんです。ロゴスについては後にお話します。考えるときだけでなく、眼で見たりするときも、じつはロゴス使って物を固まりとして認識してるという話です。ロゴスを使わず、なにかを特定のものに集中せず、三次元物体をみようとせず、執着しない。そうすると、この光り輝く無秩序に動くものがみえます。これは近くあるようで遠くにあるようにも見えます。遠近法が成り立たないんです。かって、ニーチェは遠近法主義となえました。近い遠い、臭いいい香りがする。どんな人も他人の眼、鼻をかりることできません。だから、その人は一生、自分の視点からしかものを見たり、考えられない。比較できないんです。他人の赤と私がみる赤はちがうかもしれません。これを遠近法主義といいます。この自分の視点、遠近法を超えると気がみえるんです。つまり、ロゴス、言葉によるコミュニケーションで人々がつながる以前にすでに人はみんなつながってる同じなんです。レヴィナスという哲学者は、自分の中に他人がいるといいますた。他人が考えてることがわからないように、自分のこともまた他人のようにわからない。自分は他人、他人は自分というレヴェルなんです。内も外もないんです。遠近法を崩して、気を見るとはいわばいぼの根っこ、皮膚wpみるようなもの。いぼが人間ならば、いぼの皮膚でみんなつながってる。いぼの先端でほかのいぼとコンタクトとるにはロゴスが必要なんです。根っこはみんな一緒。こんな根っこ、気という存在を見る方法をちょっと考えてみました。ちなみに人工物にはロゴス入ってます。だから気が見えにくいです。



存在の科学

   さて、なんで一発目の存在がカタマリではなく、ただの関係なのか。かたまりは実は次のホップステップあぐらっていう掛け声のいわば、ステップの段階で登場する。ただの関係性、波。ところが、これは究極的な個性、今この瞬間に、ものすごく具体的にシミ一つ見逃さない、そんな存在だからこそ、カタマリではないんだよ、と考えられる。カタマリになっちゃうと見えないところが生まれる。つぎの段階ではなぜだかロゴスなるものが出現する。ロゴスとは秩序、論理、理屈、言葉っていう奴だ。ロゴスは、こんな関係性、波をモノのカタマリのようにみなす。これをマルクスは物象化と名づける。ほんとーのところ複雑な関係なんだけど、面倒くさいし能率悪いからカタマリと考える。商品価値がその例だ。3000円の手押し車。3000円という価格、価値がカタマリのようにくっついてる思ってしまう。ところが、実際はその手押し車を製作した労働者やらさまざまな人間関係、国際情勢がその価格の内訳だ。つまり、関係をカタマリと考える。ロゴス、言葉の力もそうである。やまちゃんちょっとここに座ってくしゃみしてくれませんか、と懇願する。どうしてもくしゃみしてくれないと上司に叱られるというのだ。やまちゃんという単語使ったが、この瞬間、やまちゃんは一つのカタマリとみなされる。身長、体重、足の太さ、毛の本数、性格も全部隠されちゃう。それらを無視することによって、やまちゃんというカタマリの出来上がりだ。そんなロゴス、単語、言葉、を人間は目の前において組み合わせ考える。考えるためにはロゴスが必要なのだ。ロゴスをつかうことによって、見えないところが発覚。やまちゃんのパンチの色もわからない。見えるようにするとは、おのずと見えないものをともなう。見えないものがるということはうっかりハチベーのような間違いが生じる。間違い、虚偽はひいては悪を生み出すのだ。




    ロゴスとは、言葉、理屈、秩序。だから、やまちゃん、さとちゃん、鈴木さん、みんなひっくるめて人類という言葉もある。言葉は具体的、個性的なものを無視できるすばらしいもの。やまちゃんのズボンのしわなんかどうでもいい、ひっくるめて人類だ。つまり、ロゴスはまとめる、カタマリにするという働きがある。たしかに、言葉あってこそ、意志の疎通できるし、コミュニケーションをとってチームプレーでまとまることができる。人類はロゴスによってまとまり、かためられる。そして、なんだか一つの人類としての目的をもって突き進んでるようでもある。カタマリでしかも、目的を持つとはどんなものか。道具である。ハンマーはカタマリ、いきなり、こんにゃくにはならない。そして、くぎを打ちつけるため、という目的をもってる。カタマリアンド目的で道具。人類がロゴスを持ってるというのは、何ものかが人類を道具として使おうとしてる、もしくは使っているのだ。ロゴスはその何ものかによって埋め込まれた。人類道具説。そして、その人類の主人が、ずーっと長きにわたって地球で共存していた高度な生命体なのである。アリは人間のすべてを認識できない。人間もまた、高度生命体の一部がちらっと見えるだけ。いわゆる神様であり、しかも、突如、出現する謎の物体、UFOだったりするのだ。上位の生命体を下位の生命体は一部しか見えない。食物連鎖のピラミッドの頂点にたつのは人類ではない。もっと高度な生命体がいて、それに道具化されているかもしれないのだ。

  

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人類は高度生命体の道具。道具といったらやっぱり言葉。言葉は便利な道具とかんがえられる。小便器の前にたって、隣の見知らぬおじさんと世間話。コミュニケーション手段は言葉。人間にとっての言葉、そして、いろんな単語がある。単語は使われ、前後の脈絡の中で意味を持つ。タコっと夕日に向かって叫ぶ。なんだか青春である。さわやかな冷汗をかく青春ドラマだ。魚屋さんにてタコと叫ぶのと、けんかしてるときにタコと叫ぶのには意味が違う。ここで、アメリカの哲学者パースは言葉の三つの分類だ。インデックス、イコン、シンボルである。インデックスとは、言葉や記号の形、色である。イコンはタコという単語が指差してるものだ。そして、シンボルはいろんな単語の組み合わせ、前後脈絡から生まれる意味である。パースはタコの意味が発生するにはちょっとお時間が必要だと考える。しばらくおまちください、といいながら考える。これとは違ってスイスの哲学者ソシュールは、言葉の意味は、ほかの言葉、単語との形や発音の違いから生まれるというのだ。タコとイカという単語は文字も、発音も違う。どっちかというとイカのほうがカッコイイ。この微妙な違いがあって、間髪入れず、タコの意味が発生だ。

  さて、もしも、人間の人体が高度生命体にとっての単語、言葉だったら。まず、アメリカの哲学者ソシュール風にいえば、時間をかけて意味発生。人体はお尻ふったり、背伸びしたり、手を差し伸べたり、行動することによって意味が生まれるのだ。身体を動かす、行動することをよしとする。良き単語とする。これがアメリカの行動主義である。人体を動かす、行動したほうが高度生命体にとってより使いやすい言葉、単語なのだ。エリア51という施設がある。この場所は昔おそらくインディアンが生活していたところ。インディアンは仲間の名前をよぶとき、たとえば、斧をよだれたらしながら振りましている男、っというようにその人の動き、行動パターンをそのまま名前として使っていたのだ。つまり、インディアンは人間の人体が高度生命体の言葉であることを知っていた、または、高度生命体とコンタクトをとっていたと思われる。ところが、今はよく謎の飛行物体が目撃されるエリア51だ。もしかしたら、あの場所になにかの秘密があるかもしれない。こんどはスイスの哲学者ソシュール。スイスは中立国。いわば、国際政治に自発的に参画するのでなく、あくまで中立維持する辞書的なもの。つまり、単語と単語の違いが意味だ、というソシュール的発想からうかがえるように、どうも、高度生命体にとってのスイスは辞書的なものに見えてるのかもしれない。高度生命体が言葉、単語使った瞬間に、人間がこの世に生を受ける。世界中の人間はさまざまな意味をもったいわば高度生命体の単語なのだ。うんちかもしれないし、牛乳パックという単語かもしれない。ひょっとしたら美しいという言葉からしれない。それでは高度生命体が私っという単語をつかったときは、この世界に何者が現れたのか。救世主である。さらに、高度生命体は誰と会話してるのか。父なる神、大宇宙との会話なのだ。それでは、地球上に住む動物、昆虫の体はいったいなにか。違う高度生命体の単語、そもそも、文法が違うのだ。人類のロゴス、つまり、文法と昆虫のロゴス、文法はちがう。さて、これでお気づきかと思うが、肉はロゴスであり、ロゴスは肉である、という一節。ロゴスとは、言葉、秩序という意味だ。つまり、肉は言葉、言葉は肉、とありのままにとらえればわかる。人間の人体はなにものかの言葉、ロゴスだったのである。

 



 高度生命体は言葉、単語としてのわれわれを会話の中で出現させる。かあさん、新聞っと叫んだとき、新聞という単語に相当する山田太郎君が出現する。山田君は新聞という意味だったりする。自分らしさとは、自分が高度生命体にとってどんな意味をもった単語なのかということ。また、世の中にはたとえば、雲があり、山があり、雑草が生えている。道草食っていたな、と近所の忍者によくいわれるが、雑草食ったことを責められるのである。いわゆる動植物含めた生命体がなんらかの言葉だったら、これらの物体も言葉なのだろうか。ゴミ箱、筆箱、弁当箱、これらはいわば、高度生命体にとっての雑音である。ガサゴソなのだ。風邪気味のときに、鼻からでてきたピーっという甲高い音かもしれない。

  そんな高度生命体は人体言語を生み、雑音を生み出す。つまり、存在そのものを出現させるパワーを持っている。存在を生み出すパワーとは無にほかならない。無と存在を自在にあやつることができる。上空を飛びまわってるUFOを時に目撃される。驚きのあまり腰が抜け、女のコ座りしてぐるぐる回ってしまうこともある。UFOの目撃例ではよく、突然消えたり、出現するという。消えるとき、別次元に移動中と思われるがじつは本当に無になってしまうのだ。モノが存在するとは、質量をもっていること。宇宙空間で質量持つものは必ずや、引力、重力発生させる。重力場を作るのだ。重力場は電磁気などとは違い目で確認できない。つまり、無なのだ。重力場と質量はセットである。無と存在のセットなのだ。こんな重力場をあやつって、反重力装置で空を飛ぶのってなにか、というなぞなぞが出されたら、これはもう早押しクイズでUFOっと叫ぶしかないのだ。つまり、高度生命体はあきらかに、モノ、人体、を出現させる力を持っているのだ。

 
 
 
   父な神様とは宇宙全体である。そんな宇宙全体である神様と救世主である高度生命体との会話。そのとき使われる言葉が人間の人体。たとえば、消しゴムを半分ください、と言ったとしよう。その瞬間に、消しゴムという単語に相当する人が出現。そして、しばらくの間、消しゴムという単語は使われないが、消しゴムが落ちたとき、消しゴムを拾いますよ、っと独り言。またまた、消しゴムという単語に相当する人がこの世に生をうける。つまり、生まれ変わりである。ところが、前回は半分にしよう、今回は拾おう、というように、文脈の中で微妙に消しゴムという単語の意味が違う。ところが、いろんな場面で微妙に意味の違う消しゴムっという言葉を使ってゆくうちに、消しゴムそのものっという同一性に近づいてくる。これはいわゆる消しゴムのイデアだ。これが消しゴムに相当する人のいわば、魂なのである。 



  それでは人体がどんな奇抜な動きをしても自由意志というものが認められないのか。人体は高度生命体の言語、単語なのだろうか、とおもわず、ため息をはくとるいそう気味の少年が前倒しになる。風にも負ける、夏の暑さにも負け、ヘビー級王者には勝つ。じつは人体だけでなく、なんでも、ただ存在してるというただそれだけで活動し、自由に行動してるのである。存在し、スタンバイOKで、動き出すのではない。動き、活動してると同時に事実、存在できるのだ。パンツはパンツだ、と存在し、そのあとにパンツが踊り出すのではなく、パンツはパンツしてる、パンツやってるのである。存在とか、事実とかは現在進行形なのだ。言いかえると、存在しつつある、今、存在してるところだか、手離せないんだよね−っと電話越しに答える。ただ、存在してるんは、無のパワーのおかげさまです。どこにでも無は入り込んでおります。足の指の間、ケツの割れ目、しわの隙間、そのすべてに無が入りこみ、歴史という名の無が存在に影響与えてる。しわの隙間に小野妹子が遣唐使というもはや存在しない、無と化した歴史が生めこまれてるから、われわれ存在してるものは歴史の影響を受けてる。受けてないときは片時もない。それならば、私という存在はどこからどこまでなのか。このおおきな輪郭も無によって作られた。ただし、高度生命体がこの世界に生めこんだロゴス、言葉なのだ。だから、私というカタマリ、人格の同一性を持っている。言葉も意味の同一性をずーっと維持してる。人間が作ったものだから。ただの存在はカタマリではない。カタマリとして存在してるのは、ロゴス、言葉として存在してるからである。高度生命体の言葉として個人、人格の同一性、カタマリが作られるのである。


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